名古屋の東部丘陵地帯に位置する杁中・八事辺りは、戦国時代には集落や人家もなく、深い山の中でした。
ただ、川名や御器所辺りには集落があり、川名北城・川名南城、御器所西城・御器所東城・伊勝城・末森城などの城もありました。これらの城は、のちに小田信長の重臣となる佐久間一族が支配していました。また、豊臣秀吉の生母・なか(のちの大政所)は御器所村で生まれたと言われています。
関ヶ原の戦いにより時代が江戸になると、徳川家康は西国を占める豊臣恩顧の大名から江戸を守るため、江戸を起点とした五街道の整備とともに、名古屋城の築城を命じます。それと合わせて命じたのが、現在ある「飯田街道」(国道153号線)の整備です。
飯田街道の名は明治になってから名付けられたもので、当時は「伊那街道」、「駿河道(街道)」と呼ばれていました。この街道は、「清洲越え」により名古屋城下に整備された碁盤割りに突き刺ささるよう、城下の中心部から南東方向に延びており、杁中や八事を経て、宿場が設けられた平針で飯田方面への道と分かれ、その先で挙母(現在の豊田)への道と分かれた後、岡崎まで通じていました。これは、もし西国により名古屋城が攻められた際、徳川誕生の地である岡崎に最短かつ最速で逃れることができるように造られたのではないか?と言われています。
第三代将軍・家光(尾張藩主は家康の九男義直)の時代になると、八事に「八事山興正寺」や「香積院」、「天道山高照寺」が建立されます。また、これらの寺は、尾張藩から手厚く保護され、知行や山を与えられていた寺もありました。
そして、街道沿いにあった興正寺の広い境内は、周囲を堀と土塁で囲まれ、鉄砲や弓矢を放つことができる門(現存する東門)までありました。
それらのことから、西国の攻めにより、もし名古屋城が落ちた際は一旦岡崎方向に逃れた後、興正寺で再起を謀って敵を迎え撃つ計画があったのではないか?ということです。また、杁中〜八事の間は道幅が約3〜5mで、左右に険しい山が迫る谷間だったことから、万一の際は当時周辺にあった複数のため池の堰きを切って水浸しにし、敵の人馬の通行を妨げるという計画まであったのでは?との説もあります。
しかし、これとは全く反対の説もあります。
興正院が建立されたのは、関ヶ原の戦から約100年後で、すでに西国の脅威もなくなっていました。
当時の三代将軍家光は家康の孫で、尾張藩主は家康の実子である初代義直。四代将軍家綱はひ孫、二代藩主光友は孫の立場で、それぞれの時期が重なっており、両者の確執から数多くのトラブルが生じていました。
これにより、興正寺の整備を始めとした数々の備えは、江戸(東)に対してのものだったのでは?という説です。
確かに、八事の東側はいっきに谷が落ち込み、植田川と天白川が流れており、東からの敵を迎え撃つには非常に適した場所と言えます。
現在、公園として整備されている隼人池は、江戸時代に尾張藩の附け家老で犬山城主でもあった成瀬隼人正が造った池として知られています。隼人池は、当時ため池で、藤成新田(桜山の東側。現在の「藤成通」辺り)の整備にあたり、水を供給する目的で造られました。隼人池から藤成新田までは、高低差を利用したを樋(とい)で水が送られており、山崎川の上を横切っていました。