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滝川学区自治協議会は名古屋市昭和区にある小学校区の住民自治組織です。

TEL. 052-710-8621

〒466-0827 名古屋市昭和区川名山町46-4

歴 史

 滝川学区を含むこの地域には、意外と知られていない歴史が数多く眠っています。
また、数年前から地元の郷土史を調査・研究しているグループ(八事・杁中歴史研究会)もあります。
この研究会は、様々な視点からこの地域の歴史の掘り起こしを行っており、最近「八事・杁中歴史散歩」という本を独自出版し、評判となっています。ここでは、その本を一部引用する形で、この地域の歴史についてご紹介いたします。

戦国時代

太閤秀吉の生母・なか(大政所)は御器所で生まれた

 名古屋の東部丘陵地帯に位置する杁中・八事辺りは、戦国時代には集落や人家もなく、深い山の中でした。
ただ、川名や御器所辺りには集落があり、川名北城・川名南城、御器所西城・御器所東城・伊勝城・末森城などの城もありました。これらの城は、のちに小田信長の重臣となる佐久間一族が支配していました。また、豊臣秀吉の生母・なか(のちの大政所)は御器所村で生まれたと言われています。

江戸時代

家康によって整備された飯田街道

 関ヶ原の戦いにより時代が江戸になると、徳川家康は西国を占める豊臣恩顧の大名から江戸を守るため、江戸を起点とした五街道の整備とともに、名古屋城の築城を命じます。それと合わせて命じたのが、現在ある「飯田街道」(国道153号線)の整備です。
 飯田街道の名は明治になってから名付けられたもので、当時は「伊那街道」、「駿河道(街道)」と呼ばれていました。この街道は、「清洲越え」により名古屋城下に整備された碁盤割りに突き刺ささるよう、城下の中心部から南東方向に延びており、杁中や八事を経て、宿場が設けられた平針で飯田方面への道と分かれ、その先で挙母(現在の豊田)への道と分かれた後、岡崎まで通じていました。これは、もし西国により名古屋城が攻められた際、徳川誕生の地である岡崎に最短かつ最速で逃れることができるように造られたのではないか?と言われています。

興正寺は軍事拠点だった!?

 第三代将軍・家光(尾張藩主は家康の九男義直)の時代になると、八事に「八事山興正寺」や「香積院」、「天道山高照寺」が建立されます。また、これらの寺は、尾張藩から手厚く保護され、知行や山を与えられていた寺もありました。
そして、街道沿いにあった興正寺の広い境内は、周囲を堀と土塁で囲まれ、鉄砲や弓矢を放つことができる門(現存する東門)までありました。
 それらのことから、西国の攻めにより、もし名古屋城が落ちた際は一旦岡崎方向に逃れた後、興正寺で再起を謀って敵を迎え撃つ計画があったのではないか?ということです。また、杁中〜八事の間は道幅が約3〜5mで、左右に険しい山が迫る谷間だったことから、万一の際は当時周辺にあった複数のため池の堰きを切って水浸しにし、敵の人馬の通行を妨げるという計画まであったのでは?との説もあります。

逆説。敵は西か東か?

 しかし、これとは全く反対の説もあります。
 興正院が建立されたのは、関ヶ原の戦から約100年後で、すでに西国の脅威もなくなっていました。
当時の三代将軍家光は家康の孫で、尾張藩主は家康の実子である初代義直。四代将軍家綱はひ孫、二代藩主光友は孫の立場で、それぞれの時期が重なっており、両者の確執から数多くのトラブルが生じていました。
 これにより、興正寺の整備を始めとした数々の備えは、江戸(東)に対してのものだったのでは?という説です。
確かに、八事の東側はいっきに谷が落ち込み、植田川と天白川が流れており、東からの敵を迎え撃つには非常に適した場所と言えます。

成瀬隼人正が造った隼人池

 現在、公園として整備されている隼人池は、江戸時代に尾張藩の附け家老で犬山城主でもあった成瀬隼人正が造った池として知られています。隼人池は、当時ため池で、藤成新田(桜山の東側。現在の「藤成通」辺り)の整備にあたり、水を供給する目的で造られました。隼人池から藤成新田までは、高低差を利用したを樋(とい)で水が送られており、山崎川の上を横切っていました。

明治・大正時代

鉄道会社による開発で栄えた八事

 時代が明治になると、中道(吹上辺り)から天道(八事)まで、飯田街道の上に馬車による鉄道(愛知馬車鉄道)が敷かれました。それと同時に、元八事(テニスクラブ)に動物園や人口の滝などを備えた「八事遊園地」が同鉄道会社により造られ、市内から馬車鉄道で大勢の人たちがやってくるようになりました。なお、馬車鉄道は2年後には電化により会社名も尾張電気軌道となり、ルートも千早〜古井の坂〜大久手〜八事に変わります。
ちなみに、当時の八事と呼ばれる範囲は非常に広く、北は東山公園から南は島田や中根辺りまで。中心地は現在の元八事の辺りでした。また、イオン八事店がある辺りは「船見山」と呼ばれ、海や周囲の山々まで眺望できる景勝地だったようです。

日本で最初で最後の霊柩電車

 大正から昭和初期にかけて、八事を「霊柩電車」なるものが走っていたのをご存じでしょうか?
大正4年に八事斎場(火葬場)が完成すると、尾張電気軌道に墓地線が登場します。墓地線は、八事までの線を延伸する形で「東八事」(現在、石材店が並ぶ霊園入口辺り)までの約500mでした。主に墓参りや葬儀参列者が利用していたようですが、棺を乗せた「霊柩電車」(貸切)も運行されていたようです。現在、電車の写真や正確なルート等に関する資料は残されていないようですが、日本で最初で最後の霊柩電車だったようです。

センバツ大会第1回目の開催地だった?

 大正11年、運動用具店を営んでいた山本権十郎が私費を投じて、市内では初となる2千人が収容できる本格的な「野球場」を滝川町に建設し、「山本球場」と名付けました。そして、2年後の大正13年、「選抜中等学校野球大会」(現在のセンバツ高校野球)の第1回大会が開催されました。また、昭和11年にも職業野球(現在のプロ野球)名古屋大会として、東京巨人軍(現在の読売ジャイアンツ)と大阪タイガース(現在の阪神タイガース)の公式戦が開催されました。しかし、その後、緑区鳴海に新しい球場ができたことで公式試合で使用されることもなくなり、国鉄による買収後は「国鉄八事球場」(JR民営化後は野球部の練習場)として存続しましたが、周辺の宅地化等により、平成2年に閉鎖・撤去されました。
現在、かつての本塁付近だった場所が「八事球場メモリアルパーク」として整備され、第1回センバツ大会開催地であったことを今に伝えています。

昭和時代